どうも!
オプティマルヘルスコーチの銭君達です。
今日は「死」について取り上げてみたいと思います。
皆さんは普段、自分の死について考えることはどれくらいあるでしょうか?
- 特に考えたことはないかなぁ…
- いずれ自分は死んじゃうけど、考えないように生きてる
- オレは不死身だ!( ̄∇ ̄)
と個人差あると思います。
自分はと言うとけっこう死について考えるタイプです。
もしかしたら物心ついたときから一瞬でも死を想わなかった日は一度もないかもしれません(笑)
そして特に「自分が死ぬことに恐怖する」ことがよくあり、とても苦しみました。
死の何が怖いかと言うと、「愛する人や親しい人と離れ離れになってしまうのが嫌だ」「死ぬときの痛みが怖い」といった恐怖ではなく、
それは「自分という存在および意識が消滅し、その後永遠に目覚めることはないまま、自分がいなくなった後の世界が無限に続いていくという直感および感覚」というものでした。
つまり、「自分の意識や存在が完全に無に帰し、その状態が無限とも言える時間続くこと」に対してそれはもう恐ろしいほどに恐怖していました。
そしてこの記事は基本的には上記↑と同じような恐怖を持っている方向けです。
自分はとても死ぬのが怖いと感じていましたが、色々本を読んだり二十数年間生きてみて、次第に死生観が変わって死への恐怖が和らいだと感じているので、今日はその方法についてまとめてみます。
注意点として、タイトルに「死の恐怖を克服する方法」と銘打ってはいますが「必ず克服できる」「死の恐怖がなくなる」と保証することはできないです…(_ _).。o
ただ、自分と同じような悩みを持っている方の少しでも参考になればと思い、この記事を書いていきます。
それでは見ていきましょう!
目次
「死」の捉え方には個人差がある
自分が「あ、おれっていつか死ぬんだな」と気づいたのは確か中学生くらいのときだった気がします。
駅のホームで電車を待ちながらボーッと立っていたときに急に、
- おれはいずれ死んでしまうんだ…
- 今感じでいる心と身体はいつか完全に無になってしまう…
- なんて怖いんだあああ!
っていう感じで自分が死ぬことに対してとてつもない恐怖がズドーンと襲ってきたのを覚えています。
この日を境に、自分の人生において死の恐怖に襲われ続ける日々が始まりました。
普段人との会話や作業に集中しているときは問題ないのですが、ふと死について考えてしまうと、「自分が永遠に無になる」という感覚に襲われ、非常に怖く感じるのです。
その恐怖はこの世のものとは思えないくらい耐え難いもので、我慢できずに奇声を上げて発狂したり、心臓が破裂するんじゃないかってくらいバクバクしたりするのです。
周りに人がいなければ問題ないですが(家族ならまだマシ)、学校など他人が周りにいるときにこの恐怖に襲われるとそれはもう大変で、なんとか声を出さないように我慢しなければなりません。
とまあこんな感じで、自分は死に対してめちゃめちゃ恐怖を抱いていました。
そして「なんで自分以外の人は全然平気そうなんだろう?」とも思ってました。
そこで、当時は自分が死ぬことを恐れていることを打ち明けるのが怖く、なかなか誰かに相談できませんでしたが、ついに耐えきれなくなって勇気を出して周りの人に死について聞いてみました。
そしたら、以下のような反応が返ってきました👇
- 父親:でもいつか死ぬから一度きりの人生を頑張れるんだよ
→ 私:そういうこっちゃないんだよ…。 - 母親:え?別に怖くないよ。だって死んだら何もないじゃん
→ 私:それはそうなんだけどさ…。 - 兄:うーん、別に俺は明日死んでも構わないかな
→ 私:マジかよ…。 - 友達:へー、お前って死ぬの怖いタイプなんだ。おれは別に怖くないかな
→ 私:お、おう…。
といった感じで、どうやら自分と同じ感覚や恐怖を抱いている人は自分の周りにはいないようでした。
「え、やっぱりこの恐怖を感じてるのって世界でオレだけなのか?」と不思議に思った私は死に関する本を読んだりインターネットで検索してみたりしました。
そうやって調べてみると、自分ほどの恐怖を感じている人は少数派ながらも、確かに自分と似たような死に対する感性を持っている人はいることを知りました。
そこでようやく、「あ、この恐怖ってオレだけが感じるものじゃないんだな」と少し安心したのを覚えています。
そのため、もし今この記事を読んでいるあなたが私と同じような死の恐怖を抱いているとしたら、あなたは1人じゃないので安心してください(笑)

自分と同じ死の恐怖を抱える著名人
ここで、自分と同タイプの死の恐怖の感覚を持つ著名人を3人紹介し、それぞれの死生観を見ていきたいと思います。
①堀江貴文:実業家
まず一人目はホリエモンこと堀江貴文さんです。
あれだけ波乱万丈な人生を送っている堀江さんが自分と同じような死の恐怖を抱いていると知ったときはけっこうビックリしました。
以下に堀江さんの死の恐怖に関する記述を、彼の著作の中で最も売れた本である『ゼロ』から引用します👇
はじめて死を意識したのは忘れもしない、小学1年生の秋である。
学校からの帰り道、一緒に下校していた友達と別れ、自宅へと続く一本道を歩いていた時のことだった。深まる秋に、すでに空は赤く染まっている。足元には枯れ葉が舞い上がり、冷たい風の吹き抜ける夕方だった。これといって考え事をしていたわけではない。なのに突然気がついた。
「僕は、死ぬんだ」
人はみな、いつか死んでしまう。お父さんもお母さんも、いつか死ぬ。そして僕も、死んでしまうんだ。この世から消えて無くなってしまうんだ……!!
あたりの景色が暗転したような、猛烈な恐怖に襲われた。
堀江貴文:『ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく』
この文章を読んだとき、「そう!この感覚なんだよ!」ととても共感したのを覚えています。
ただ自分は中学生のときなのに対し、堀江さんは6歳という若さで自分の死について気付いているのでめっちゃ早熟だなと思いました(笑)
②中島義道:哲学者
二人目に紹介するのは、哲学者として知られる中島義道さんです。彼も死の恐怖を抱え続けている人の1人です。
以下は中島さんが著作の中で述べている死の恐怖に関する表現です👇
私は六歳のころから、心のうちでたえず「死ぬのが怖い!」と叫んでいた。何が怖かったのか。それは、けっして父や母と別れるから怖いという感情ではなかった。幼い私が震えていたのは、私が完全に「無」になるということ。それは何なのかわからないながらに、ほんとうに冷や汗が出るほど怖かったのである。
私が何億年のあいだ「無」であり続けるというイメージに、私はのたうち回るほど苦しんだ。二度とふたたび生きるチャンスを得ることはできずに、私はずっとずっと無であり続けて何十億年後に世界は終焉してしまう!
こうしたイメージが次第に私の中で鮮明になり、それが一つの疑いえない直感となって私の頭を荒らし回り、私は「なんって残酷なんだ! なんって残酷なんだ!」と心のうちで絶叫している。その後しばらくは、放心したようになって、何をする気も起こらない。こんなことが、数日に一回くらいの割合で襲ってきた。
中島義道:『生きにくい……私は哲学病』
この記述を読んだときも、堀江さんの『ゼロ』を読んだときと同じで、「あ、この人オレと全く同じだわ…」と思いました。
マジで冷や汗出るし、のたうち回るほど怖いんですよ。
この恐怖を持たない人から見れば頭のおかしいやばい人に見えるかもしれませんが、わかる人にはわかるはず。
③前野隆司:慶應大学大学院教授
三人目に紹介するのは幸福学研究(その他にも脳科学や教育学など専門は多岐にわたる)で知られる前野隆司さんです。
以下が前野さんの死の恐怖に関する記述です👇
小学校の低学年の頃、僕は死ぬのが怖くてしかたがなかった。
どうして僕は、今ここに存在しているのか。一方、生まれるまでは何もなかったのか。いや、何かあったけれど、思い出せないだけなのか。そして、死んだあとも、生まれる前と同じように、また何もなくなってしまうのか。それとも、思い出せなくなってしまうのか。
僕が生まれる前の、とてつもなく長い時間と、僕が死んだあとの、同じくとてつもなく長い時間。僕がいないのに、どうして世界は平然と続いていくのか。
僕からみた世界は僕のためにあるのに、僕という主人公がいなくなったあとで、世界は、誰のために、何のために、続いていくのか。世界にはじまりはあったのか、なかったのか。宇宙に果てはあるのか、ないのか。
そんなことを考えただけで、怖くてしかたなかった。
前野隆司:『「死ぬのが怖い」とはどういうことか』
こうして見ると、前野さんも堀江さんや中島さんと同じような恐怖を小さい頃に感じていたことがうかがえます。

死の恐怖に対して取れる3つ反応
これほどまでに我々を苦しめる「死の恐怖」ですが、四六時中恐怖していては日常生活を送れないので何らかの対策を取る必要があります。
そしてその対策としては主に以下3つの方法に分類することができます👇
- 否定する
- 無視する
- 対応する
順番に見ていきましょう。
①否定する
一つ目の死の恐怖に対する反応は「否定する」です。
ここでの「否定する」とは以下のように事実や現実に対して真正面から見つめようとしなかったり、根拠も何もないことを信じることで死の恐怖から逃れようとする行為のことを言います👇
- 肉体が無くなっても魂は存在し続ける
- 身体が消失してもいずれ蘇る
- 輪廻転生する
- 死んだら神になれる
- 死後の世界で天国に行ける
- 自分はそもそも死ぬことはない
もちろん「神」「魂」「死後の世界」といったものが存在しないと証明することは難しいですが、逆にこれらが存在すると証明されているわけではありません。
この世に宗教が生まれた理由は「愛する人と離れたくないから」「大衆をコントロールするため」など色々ありますが、一つの大きな理由は「死の恐怖から免れるため」です。
ただ、現代人の考え方からすると神や死後の世界を本気で信じれる人はなかなか少ないのではないでしょうか?
実際に何らかの宗教を信じている人が多いとされているアメリカでも、過去10年の間で無宗教を表明する人が劇的に増加しています。(詳細はこちら)
もちろん「宗教を信じる者が悪だ」と言っているのではありません。実際に信心深い人は人間関係が良くなったり健康的な生活を送れて寿命が伸びるとも言われています。
ただ、ことこの死の恐怖に関して、神や宗教、死後の世界に頼ることがどうしても出来ない人もいるはずです。(自分もその一人です)
②無視する
一つ目の「否定する」が難しいとなると新たな対応を模索する必要があります。
そこで考えられる新たな方法が「無視する」という行為です。
これは文字通り死の恐怖を「無視する」「考えないようにする」ということです。
先に紹介した堀江さんは死の恐怖に対してこの「無視する」という対応を取っていると考えられます。
再度、『ゼロ』からの引用です👇
パソコンでも受験でも、競馬や麻雀でも、僕は一度その対象にハマり込んでしまうと、異常なほどに没入してしまう。周りのことが何も見えなくなる。なぜそこまでハマるのか、昔は不思議でたまらなかった。
でも、おそらくこれは、僕なりの生存戦略だったのだ。
何かに没入することで、死を遠ざける。死について考える時間を、可能な限り減らしていく。僕は死を忘れるために働き、死を忘れるために全力疾走し、死を打ち消すために生を充実させていたのだ。
堀江貴文:『ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく』
まさに、死の恐怖を無視し、何かに没頭することで死の恐怖が頭の中に入り込む隙間を一瞬たりとも与えない、という強い思いがうかがえます。
これは自分としても非常によくわかる気がします。
というのも、①の「否定する」ことが出来ないなら、もう②の「無視する」しか死の恐怖から免れることができないように感じるんですよね。
ただ、私は堀江さんみたいに上手に無視することはできませんでした。
確かに何かに熱中したり没頭したりしてるときは死に恐怖することはないのですが、「暇になったとき」「ふとしたとき」「お風呂に入ってるとき」「夜ベットで天井を見つめてるとき」なんかに死の恐怖が入り込んできてしまうんですよね。
イメージとしては以下のような感じです👇

普段は「勉強」「恋愛」「趣味」といったものに熱中し、死について考えることはないのですが、ふと何もしてない時間ができてしまうと死の恐怖の扉が頭の中に浮かび、その扉を何とか開けないように抵抗してみるものの、扉の中に入り込んでしまったときにいつものズドーンと来る死の恐怖に襲われる、という感じです。
堀江さんみたいに四六時中何かに猛烈に没頭できればいいのですが、正直私にはそれが出来ませんでした(笑)
③対応する
①の「否定する」、②の「無視する」も難しいとなると、残された道は問題に対して真正面から立ち向かう、「対応する」しか方法はありません。
ただ、昔の自分はどう対応していいか全く分かりませんでした。
死の恐怖をありのままに見つめ、どうにか突破口を見つけ出そうとしても、ただただそのおぞましい恐怖に苛まれるだけで、全く解決の糸口を見つけられません。
ただ、最近になって色々知識を集めたり思索を巡らせていくうちに、「あ、こういうことなのかも」ということが次第に分かってきたので、そこまでに至ったプロセスをコンパクトにまとめて紹介したいと思います。
死の恐怖を克服するための3ステップ
ここまで前置きがかなり長くなってしまいましたが、死の恐怖を克服するための考え方を3ステップに分けて解説していきたいと思います。
その3つのステップとは以下の通りです👇
- 欲望や心は全て幻想だと理解する
- 主観的時間と客観的時間の違いを理解する
- 「自分という存在」はフィクションだと理解する
順番に見ていきましょう。
ステップ①:欲望や心は全て幻想だと理解する
まず一つ目の重要な考え方として、「欲望、そして快楽や恐怖といった感情、心や意識といったものは全て幻想だ」ということを理解することが必要です。
ここで一度おさらいのために自分が何に恐れているか再度確認しておきます。
それは、「自分の意識や存在が完全に無に帰し、その状態が無限とも言える時間続くこと」でした。
そしてこのステップ①では「自分の意識や存在が完全に無に帰し、その状態が無限とも言える時間続くこと」の前半部分の「意識」や「心」の正体にフォーカスを当てていきます。
先にも言った通り、私は「魂」や「前世」、「輪廻転生」といった考え方を信じていません。そういった実体のないものは存在せず、この世にはただただ物質が存在するだけ、という物質主義を採用しています。
というのも、人間も物や植物、動物と同じで無数の素粒子や原子が組み合わさって構成されています。
今私がタイピングして打ち込んでいるパソコンやその下にある机は物質ですが、究極的には人間はこれらの物質と変わらないはずです。
もちろん物質と人間が機能的に全く同じであるという意味ではありません。人間は確かに自ら自分を動かしたり、思考したり、感情を持つといった機能を持っていると言えます。
ただ、それらの機能を持っている自分自身も素粒子や原子によって構成されているに過ぎないという点で本質的には同じという意味です。
しかし、よくよく考えてみると、そういった意識や感情というのは、そういうふうに人間が言葉として定義しただけであって、実際はただの「幻想」であることがわかります。
例えば、あなたがそこら辺に落ちている石を宙に飛ばしたとします。そしてもしその石が意識を持っていたとしたら、その石は「わーい、おれ飛んでるー!」と自分の意志で飛んでいると錯覚します。
ただ、実際はあなたが飛ばしたのだからそうではありません。
もう一つ例を挙げると、以下のように税抜き価格に消費税率を掛けることで税込み価格を表示するようプログラムされたパソコンソフトがあるとします👇
Y(税込み価格)= X(税抜き価格)× 1.10(消費税率10%)
この関数式のXに100円の商品を代入するとすると、100 × 1.10で110円という答えが出てきます。
もしこのソフトに意識があったとすると、「110円という答えは自分が導き出した」と思うはずです。
しかし実際はそうではありません。誰かがそのソフトにY=X×1.10という関数式をプログラムしたからその答えが出てきたのです。
人間の場合もこれと同じです。

「人間は高等生命体であるから自由意志があって高度な思考力ができる」と考えがちですが、実際はその構造が複雑に絡みあっていると言うだけで、元素や遺伝子、神経細胞、といった物質によってプログラム化されており、それらのプログラムが外部からの刺激に対して反射的に反応しているだけではないでしょうか?
この「外部刺激に対する反射や反応」がいわゆる私たちが持っていると感じる「意識」や「心」であると言えます。
つまり、普段私たちは未来のことに不安を持ったり、何かに対して恐れを抱いたり、美しいものを見て感動したりしますが、実際はそれらは外部刺激に対して内部のプログラムが反応しただけの「虚像」である、と言うことができます。(残酷な言い方ではありますが笑)
ただ、それがあまりにもリアル過ぎるために、あたかもそれがあるかのように感じてしまうのです。
これを徹底的に理解し腑に落ちることができれば、「死ぬのが怖い」という感情も人間というプログラムが作り出した幻想であるということを悟り、死ぬのが怖くなくなるはずです。
なぜなら「人間は外的刺激に反応するだけの機械のようなもの」だからです。
果たしてこれは「生きている」と言えるのでしょうか?
実際は私たちはゲームの中のキャラクターと変わらないのではないでしょうか?

ステップ②:主観的時間と客観的時間の違いを理解する
次のステップ②では「死の恐怖」の正体である、「自分の意識や存在が完全に無に帰し、その状態が無限とも言える時間続くこと」の後半部分の「無限の時間」について考察していきます。
「意識の消失」ももちろん怖いですが、この「無限の時間」も死の恐怖を助長する大きな要因です。
先ほど紹介した哲学者の中島義道さんも「何億年もの間、無であり続けること」にとても恐怖を抱いています。
では、なぜ私たちはこれほどまでに「無限の時間」に対して恐れを抱いてしまうのでしょうか?
結論から言ってしまうと、「生まれる前の無限な時間と死んだ後の無限の時間について考えてしまうことは、主観的な時間しか知覚できないのに客観的な時間も知覚できると勘違いしてしまっている」からです。
「時間」という概念は本当に不思議なものです。
時間とは実体のないものであり、私たち人間が出来事や変化を認識するために作り出した概念と言えます。
そして多くの人が日常で過去や未来について話すときの「時間」とは、物事の変化を認識するための物理的時間、つまり「客観的時間」です。
対して、昔のことを思い出して感傷に浸ったり将来のことを想像したりするのが心理的時間、つまり「主観的時間」です。
そして、私たちはよく過去や未来がさもあるかのように思っていますが、主観的な目線からしたら過去も未来も存在せず、「今」しかありません。
過去の思い出を想像してそのときの感覚を覚えてたとしても、それはその思い出そのものの感覚ではなく、その思い出を想像したときの感覚です。
つまり、主観的時間には「今」しか存在しません。
けれども、私たちはつい客観的な時間が流れていると信じてしまうため、過去や未来の出来事について考えてしまいます。
イメージとしては以下のような感じです👇

客観的時間からすると、過去から今、そして今から未来にかけて無限の時間が流れていると感じます。
ただ、実際は私たちには主観的時間しかありません。
そしてその主観的時間には今しかなく、過去や未来は圧縮されてゼロになる、つまり存在しないのです。
よって、「無限の時間は存在しない」ということが分かります。
また、この考えをさらに発展させると、「主観的な死は存在しない」ことも分かります。
人間には「今」しかないため、「死の直前」を感じることはできますが、「死そのもの」を感じとることはできません。
これに関連して、紀元前のギリシャの哲学者であるエピクロスはこんな言葉を残しています👇
死は我々にとって何ものでもない。 なぜなら我々が存在する時には、死はまだ訪れていないのであり、死が訪れたときには我々は存在しないのだから。
エピクロス(紀元前のギリシャの哲学者)
ステップ③:「自分という存在」はフィクションだと理解する
最後のパートであるステップ③では、「自分の意識や存在が完全に無に帰し、その状態が無限とも言える時間続くこと」の「自分という存在」とは何かについて考えてみましょう。
「死に恐怖する」ということはつまり「自分という存在」が死ぬことに恐怖しているということですよね。
ではもし、この「自分という存在」が「全くのフィクションである」としたら皆さんはどう思われるでしょうか?
それではまずは「自分」の定義を考える前に、「あらゆる物事や概念を定義するとはどういうことか」について考えていきます。
例えば、「数字」は色んな分類の仕方がありますが、分かりやすい分類として「奇数か偶数か」というのが挙げられます。
そして、「奇数」の定義は「2で割り切れない整数」です。
「2」は「偶数」なので、「奇数」は「偶数」という存在があって初めて定義することができると分かります。
もう一つ例を挙げると、「世界が全て赤色」だとします。
そのとき、その色を説明することは出来ません。
goo国語辞書で赤の定義について調べてみると、「三原色の一つで、新鮮な血のような色」と出てきます。
しかし「世界が全て赤色」だとしたら、「三原色」も「新鮮な血のような色」も存在しません。全て同じなのですから。
では今度は「自分だけしか存在しない世界」を想像してください。
このとき、やはり「自分」とは何かを定義することが出来ません。
もしかしたら、「いやいや定義できるよ!私の性別は〇〇で、身長□□cm、体重△△kg、学歴××卒、年齢–歳だよ!」と思われる方もいるかもしれません。
ただ、「自分」以外のものはこの世に存在していないので、「性別」「身長」「体重」「学歴」「年齢」という概念も存在していないのです。
つまり、「物事や概念にに絶対的な定義はなく、あくまで他との関係において定義することができる」ということが分かります。
そしてそれは私たち人間1人1人にも当てはまります。
- いやいや、そうは言っても自分の身体は存在しているじゃん!
- 実際に今この記事を読んでるし、自分の身体を触ることもできる
- この「身体」こそが「自分」である
と思うかもしれません。
では、その「身体」は「どこからどこまでが自分」なのでしょうか?
例えば、今この記事を読んでいるデバイス(スマホかパソコンかタブレットのいずれかでしょう)は「自分」と言えるでしょうか?
こう聞かれたら、おそらく100人中100人が「自分ではない」と答えるでしょう。
では「髪の毛」はどうでしょう?
おそらく多くの方が「髪の毛」は「自分の身体の一部」と考えているかもしれません。
でも「抜け落ちた髪の毛」の場合はどうでしょう?それは「自分の身体」でしょうか?
他にも「唾液」「腸内に住む大腸菌」「口に含んだ水」などについても考えてみてください。
これらは、「自分」なのでしょうか?
身体を構成している37兆個の細胞が「自分」なのでしょうか?
ただその細胞は早いもので約1ヶ月、遅いものでも200日ほどで入れ替わっていきます。
こうして考えてみると、「自分とは何か」と定義するのは非常に難しいということがわかります。
やはり、「自分には絶対的な定義はない」のです。
「自分」を定義するにしても、「自分以外の世界=全体」との関係のように他者に依存する必要があります。
しかもその定義は「絶対的なもの」ではなく、あくまで「相対的なもの」です。
つまり、私たちが「自分」と言うときの「自分」とは、全体の一部を切り取って、境界線を引いて、それを「自分だと思い込んでいるだけ」と言えるのではないでしょうか?

つまり「死を恐れる」ということは、元々定義されていなかったものを「自分」と定義し、そしてその「自分」が無くなることを恐れているということです。
さらに分析してみると、「死を恐怖する」ということは、「自分が今手にしていないものを実際に持っていると感じ、それを失うことを恐れている」と言い換えることができます。
こう考えてみると、「自分がなくなる恐怖」なんてのは全くの幻想だということが分かります。
なぜなら、「自分」なんてものは私たちが作り上げた「虚構(フィクション)」なのですから。
これからの人生、どう生きる?
ここまでで「死の恐怖」、言い換えれば「意識」「存在」「無限」に対する恐怖をどう克服すればいいか解説しました。
そしてその克服する方法とは「意識」「存在」「無限」が目の前に「あるもの」として考えるのではなく、それらが実際には「幻想」だったと捉えることで恐怖を消し去るというものでした。
つまり、「前提を根本から覆すことで、物事の見方を180度変えること」で死の恐怖を克服する方法を紹介しました。
まさに、コペルニクス的転回のような発想です。
この発想を手にすることができると、人によっては人生の生き方、いわゆる人生観がガラッと変わる人もいるかもしれません。
自分はと言うと、けっこう人生や物事に対する見方が変わったと思います。
死の恐怖が以前に比べだいぶ軽減されただけでなく、
- いい意味で悩み事がどうでもいいやと思える
- 過去の後悔や未来に対する不安に捉われなくなる
- この世界はポジティブもネガティブもないニヒリズム(虚無主義)である
- 物事に善悪も優劣もない
- 人生を楽しむためにただただ自分がやりたいことをやればいい
といった認識を持てるようになり、気持ちが非常にリラックスした状態になりました。
しかしながら、「この世は幻想である」と理解すると、
- だったらもう何もしなくていいじゃん
- 何かを頑張ったり、やったりするのも意味ないじゃん
- どうせ死ぬのなら今死んだっていいじゃん
と悲観的になってしまう人もいるかもしれません。(自分もこの気持ち、よく分かります)
そういう人は「人生は一度きりしかない明晰夢だ」と考えてみてください。
明晰夢を見たことがない人には伝わらないかもしれませんが(笑)、明晰夢に入ると、自分が見ている夢が夢であると認識し、夢の状況を思い通りにコントロール・変化させることができます。
明晰夢を見たことがある人なら分かると思いますが、明晰夢ってめちゃくちゃ楽しいんですよ(笑)
だって何でも自分の思い通りになるし、自分の好きなことをやりたい放題できるんですから。
空を思う存分飛んでみたり、自分の理想とする姿になってみたり、大好きな芸能人とチョメチョメしたりできるんです( ̄∇ ̄)
もしこんな機会が与えられたとしたら、「どうせ明晰夢もいつか終わるしなぁ」と言って何もしないでしょうか?
「こんな美味しい機会は滅多にない!」とばかりに思う存分楽しもうとするのではないでしょうか?
人生もこれと同じです。
たまたま宇宙が「ほらよっ!」と楽しめるチャンスを与えてくれたのです。
人生は自分次第でいくらでも変えられる可能性がありますが、だからと言って何事も自分の思い通りになるわけではありません。
けれども、この「何が起こるかわからない」という「予測不能性」が、むしろ人生を明晰夢よりもさらに面白くさせていると言えるのではないでしょうか?
こんなに面白いチャンスが目の前に転がってるのに、何もしないというのは勿体ないですよね。
だから、皆さんも私と一緒に「生命という奇跡」をただただ楽しもうではありませんか。
参考文献
- 「死の哲学」について万遍なく、かつ深く知れる一冊
- 「死」について考えるうえで、哲学者がどんなことを考えているか知りたい、「死」についていろんな角度で分析したい、といった方にオススメ
- 堀江貴文さんの著書の中で最も売れた至極の一冊
- 堀江さんの感性や波乱万丈な生き方、そしてその生き方に「死の恐怖」がどんな影響を与えたかを知れる本
- 中島義道さんの世界に触れられる入門書
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