過去の後悔・トラウマ・挫折に苦しんでるなら、そこに意味を見出してみよう

メンタル

 

この記事では、過去の後悔・トラウマ・挫折の乗り越え方について話していきます。

 

  • 過去の人生で大きな後悔を持っており、立ち直れそうにない…
  • 過去にトラウマになるような経験をして、未来に希望を見出せない…
  • 大きな挫折を経験し、自信喪失してしまっている…

 

なんていった方、そして同じように苦しんでいた自分へのエールも込めて、この記事を書いていこうと思います。

 

過去の出来事に縛られてるなら、解釈を変えてみよう

person standing in the middle of wheat field

誰だって思い出したくない過去の出来事や、「なんでこんなことしてしまったんだろう」「どうしてもっとこうしなかったんだろう」といった後悔があると思います。

そしてこういった過去の後悔・トラウマ・挫折にフォーカスし過ぎてしまうと、気分が落ち込んで前向きな気持ちになれなくなったりしますよね。

 

そういうときは、「物事の見方を変えて、その過去の出来事に新たな解釈を与えてみる」ことを提案します。

というのも、そもそも人生に正解なんてものはないし、絶対的な善悪なんてものはないと思うんですよ。

 

例えば、昔と今ではいわゆる「美人」と呼ばれる人の特徴って全然違ったりしますよね。

現代の美人の特徴をいくつか挙げるとすると、「目がパッチリしてる」「歯並びがいい」「涙袋がある」とか色々ありますよね。

ただ、平安時代に美人とされた人の特徴としては、「切れ長でシュッとした目」「ふっくらとした頬」「こじんまりとした鼻と口」といった感じで現代の審美観とはむしろ対極だったりします。

 

また、悪の代表格とされる「殺人」や「自殺」についても考えてみましょう。

たぶん多くの人が「殺人や自殺はやってはいけないこと」「絶対的な悪」と捉えていると思いますが、これまた先ほど挙げた美人の例と同じで時代や状況、捉え方が違えば、かえって善とされることもありますよね。

 

まずはじめに「自殺」についてですが、学校もしくは職場で非常に過激ないじめに苦しんでいて、誰にも頼ることができない環境にいた場合、その人にとっては自殺は善になり得ますよね。

逆にそんなに辛い状況にあるにもかかわらず、「どんなに苦しくても自殺はするな」と言う人の方が悪と言える可能性も大いにあります。

また、江戸時代の切腹を例にとっと見れば、自分も周囲も両者とも「美徳」だと捉えてますよね。現代人から見ればそれはただの自殺なのに。

 

そして「殺人」に関してもそうで、「自分が相手を殺さなければ殺される」、なんて状況だったら殺人を犯したとしても正当防衛だと認められることもありますよね。

こんなふうに考えてみると、要は使い方だったり、物の見方の方が大事なのであって、「物事に絶対的な善し悪しは存在しない」とわかります。

 

そしてそれは過去の後悔・トラウマ・挫折に対しても同じことが言えて、「後悔」「トラウマ」「挫折」なんて表現するからいけないんだと。

意味」「教訓」「希望」とかのような言葉に言い換えてあげればいいだけなんだと。

 

私が抱えていた過去の後悔・トラウマ・挫折

person holding book page with string lights

具体的にどのように解釈を変えていけばよいか、恥ずかしいですけど自分の過去を例にとって考えてみます。

自分の過去の後悔・トラウマ・挫折を以下にいくつか挙げてみました👇

 

  1. しつけとして小さい頃に親に裸にされてリビングで1時間立たされたこと
  2. 中学生の頃気になっていた子に告白されるも、自信がなくて断ってしまったこと
  3. 3年間高校時代のバスケ部で顧問に精神的にも肉体的にも虐げられたこと
  4. 大学受験の勉強が全く手に付かず、第一志望の大学に合格できなかったこと
  5. 留学時のプレゼンの際に頭の中の台本が全て飛んで、1分もの間沈黙が流れたこと
  6. 新卒で入ったコンサルティング会社を1年も経たずにうつ病で退職したこと
  7. 今までの人生を自分軸ではなく他人軸で生きてしまっていたこと

 

以前までの自分は、これらの出来事を全て否定的に捉え、「こんなどうしようもない人生を送ってしまった」「取り返しのつかない人生を無駄にしてしまった」なんていうふうに考えて絶望的になっていたんですよ。

これなら死んだ方がマシかな」、みたいな。

 

でも、どんなにひどいと思えるような過去であったとしても、必ずそこに意味や教訓、希望を見出せるものなんです。

例えば以下のような感じで👇

 

  1. しつけとして小さい頃に親に裸にされてリビングで1時間立たされたこと
    自分がもし子供を持ったら、こんなしつけは絶対にしない。これに気付けたから未来の子供達を傷つけずに済んだ。
  2. 中学生の頃気になっていた子に告白されるも、自信がなくて断ってしまったこと
    自分に自信を持つには、自分の弱さも含めてありのままに受け入れることが必要だと認識できた。
  3. 3年間高校時代のバスケ部で顧問に精神的にも肉体的にも虐げられたこと
    自分が好きでもないことを誰かにやらされたりそれを続けること、または誰かに認めてもらおうと躍起になることの無意味さを痛感した。
  4. 大学受験の勉強が全く手に付かず、第一志望の大学に合格できなかったこと
    頑張ることの非効率さと楽しむことの重要性を学んだ。
  5. 留学時のプレゼンの際に頭の中の台本が全て飛んで、1分もの間沈黙が流れたこと
    プレゼンは暗記した台本を外に垂れ流す場ではなく、自分が伝えたいことを情熱を持って話す場だと知れた。
  6. 新卒で入ったコンサルティング会社を1年も経たずにうつ病で退職したこと
    自分にとって意味のないこと、大事なこととは思えないことをすることほど苦痛なものはない、ということを体感できた。
  7. 今までの人生を自分軸ではなく他人軸で生きてしまっていたこと
    20代前半で他人軸で生きていたことに気付けてよかった。この気付きは今後自分軸で生きるための勇気の源になる。

 

過去の傷跡が人生を輝かせる

persona holding star near the window during sunset

こんなふうに辛い過去を持っていたとしても、そこに意味を見出すことで、今までなら「闇に葬り去りたいと思っていた過去の記憶や出来事」が、今度は逆に「かけがえのない大切なもの」のように感じられたりするんですよね。

 

この感覚をモノにたとえるとするなら、一度壊れた器を修復する技法である「金継ぎ」です。

 

金継ぎ欠けたり割れたりした器を、漆を使って修復する伝統的な技法

修復前:

image2.jpeg


修復後:

image23.jpeg

 

引用:「金継ぎ」で欠けた器が生まれ変わる!初心者でも安心なキットで実際にやってみた。

 

修復前の画像を見てみると、何箇所か欠けており、もう使い物にならないと感じてしまいます。

ただいざ修復してみると、修復前は欠けていた部分を気にしていたのに、今度は逆に欠けていた部分が「いい味出してるじゃん」と気付きます。

 

また、書道なんかも同じです。

書道って文字を書いてる途中で失敗したとしても、「この失敗した部分をどうすれば活かせるだろう?」「残りの部分でこうすれば逆にバランス良くなるんじゃないか?」っていう感じで後から挽回することができますよね。

小さい頃はみんな習字を習うと思いますが、習字はいかに文字を美しく書くかを追求するものであり、その美しさには基準がありますよね。

でも書道はそんな「標準的な美しさの診断基準」なんてものはなく、いかに個性を発揮して自分を表現するかですよね。

 

そして「人生は習字ではなく、書道」だと思うんですよ。

多くの人が習字のように綺麗で、そして完璧な人生を送らなければならないと思いがちですが、人生はそうじゃなくて、書道なんだと。

 

また、最近よく聴いているOfficial髭男dismの「ビンテージ」って曲にこんな素敵な歌詞があります👇

 

キレイとは傷跡がないことじゃない。傷さえ愛しいというキセキだ。

—Official髭男dism – ビンテージ

 

 

過去が未来を決めるのではなく、未来が過去を決める

man on grass field looking at sky

 

私たちはよく、

 

  • 私は今までこうゆうふうに生きてきた。だから未来はこうなるしかない。
  • 俺はこういう経歴でこうゆう資格しか持ってない。だからあの憧れの仕事には就けない。
  • 自分は過去にこんな辛い経験があったから、未来も幸せな人生を送ることはできない。

 

なんてふうに、「過去に〇〇があったから、未来は□□になる」と考えがちです。

 

ただこの考え方は非常にもったいない。そう考えるんじゃなくて、

未来は△△になりたい。その上で過去の出来事には××という意味があった

というふうに考えてみたらどうか。

 

 

過去の出来事はまず度外視して、それから未来の希望を考えて、その後にそれらを叶えるうえで過去の出来事にどんな意味があったかを見出していく。

つまり、「過去が未来を決めるのではなく、未来が過去を決める」のだと。

 

 

記事の最後に、ナチスによるホロコーストを経験し、『夜と霧』を書いた精神科医のフランクルの名言を紹介して終わりたいと思います👇

 

In some ways suffering ceases to be suffering at the moment it finds a meaning.

ある意味で、苦しみはその意味を見出したときに、もはや苦しみではなくなるのだ。

—ヴィクトール・E・フランクル(オーストラリアの精神科医)